「イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。・・・この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(ヨハネの福音書14:6~8)
すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。・・・この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」
愛するとは、そのために我を忘れさせるようなことです。愛がつねに思盧深く、賢明であり、常識的で、計算ずくで動くものであるなら、それは愛とは言えません。
皆さんは、義務感から離れ、それが有益であるかどうかも考えずに、我を忘れて誰かのために、神のために何かをするよう迫られたことがあるでしょうか。
この聖句に出てくるある女性は、自分が持っている高価な香油を主イエスのために注ぎ、涙で主イエスの足を濡らし、自分の髪の毛でその足を拭いたのでした。
それを見ていた周りの人は、「何と馬鹿なことをするのか」という思いで見ていたのですが、主イエスは、彼女の行為の内にあるその心をご覧になって、「この人は出来る限りのことをしてくれた」と言われたのでした。
彼女の心のうちにある思いは、書かれてはいませんが、損得や利害、見た目などを超えて、自分の出来る限りのことを主イエスのためにしたいという思いがここにはありました。この女性は、「罪深い人」であったと言われていますが、この行為は、彼女のこれまでの罪を悔いて、その赦しを求める思いだったのではないでしょうか。
この方は、わたしの罪も、弱さもご存知の上で、こんな私を受け入れてくださる。汚れた私だけれど、この方にできるわたしの精一杯のことをさせていただきたい。そんな思いだったのではないでしょうか。
祈り
天の父なる神様、あなたがわたしのために、この世界のあらゆる命のためにしてくださっていることを見るとき、「我を忘れて、損得も利害も度外視で、私を愛していてくださる」ことを教えられます。
あなたの愛の深さ、広さ、長さ、高さがどれほどであるかを知ることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。