まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。ヨハネによる福音書12:24-25
もしも、イエス・キリストが、苦しみを受けるだけであれば、私たちの罪をあがなうことはできませんでした。罪の支払う報酬は死であり、人の罪は、死をもって償わなければならないからです。
このことをご存知である主イエスは、「異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイ20:19)「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」(マタイ26:2)といわれました。
ここで「十字架につける」と訳されている言葉は、原文では「十字架につけられなければならない」という文になっています。
また、この聖句は、私たち人間が、死ぬことによって実を結ぶことが出来るようになる、(神がそのように私たちのうちに働いてくださる)ということも指し示されています。(霊的に)私たちが自分に死ぬことによって、御霊が我が内に働いて私たちを生かしてくださいます。また、(肉体的に)私たちが死ぬことによって、もはや罪は私たちに力を持たず、私たちは主イエスによって新しい自分へと変えられるのです。
祈り
天の父なる神様、死は恐ろしいものと考えられてきましたが、私たちのために十字架で死んでくださった主イエスによって、キリストにある者にとって、死は恐るべきものではなく、新しいいのちの世界への入り口となりました。
この希望をもって、日々を歩むことが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。