人間を根本的に造り変える力

聖書はふしぎな書物です。大人も子供も、男も女も、あらゆる階層の人たちの心の求めに、こたえ得るからです。私たち人間を根本から造り変えるカがあり、希望を与える書物なのです。何度繰り返し読んでもあきることがなく、また知りつくしたということのできない、深い内容を持つ書物です。

旧約聖書はイエス様の誕生以前に、新約聖書はイエス様の誕生後、一世紀末位までに書かれた古いものです。しかし、聖書は昔も今も私たちに生きる指針を与え、力を与える書物として読まれてきています。古い書物でありながら、現在もなお新しさを失わない書物です。聖書のこのようなふしぎさは、聖書のことば自体のすばらしさ、聖書の中に変わらない真理があるからです。

聖書は旧約聖書と新約聖書とで、約1900ぺ一ジもあり、読むのは大変で、むずかしいと思われがちですが、読む順序はどこからでもかまいません。推理小説やストーリ一のある小説なら、最初から読まねば分かりませんが、聖書はどこから読んでもいいのです。読んでいくとよく聞いたことのある言葉に、また本当にそうだと、うなずかせられる言葉に出合います。

例えば、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。「求めなさい。そうすれば与えられます。」「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」などのイエス様の言葉は、多くの人に知られていることでしょう。私もクリスチャンになる前から、こうした言葉を読んできたことが、聖書の神様の約束を知ることが、人生の大きな支えであり、希望となっていました。

愛について学ぶ

ある時に、夫婦喧嘩(げんか)をして来た奥さんを導くことを頼まれました。そこで、その奥さんにコリント信徒への第2の手紙13章を読んでもらいました。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。…」

そして、「愛」の代わりに「私」と置き換えて、もう一度読んでもらいましたら、終わりまで読み切れませんでした。私たちの心の中には愛がまことに少ないからです。そこに「キリスト」の名を入れると、ふさわしいことに気付きます。「キリストは寛容であり、キリストは親切です。…」愛の足りない私たちでも、愛であられるキリストを信じるときに、愛の人に変えられるのです。

聖書は神のことば

旧約聖書に「箴言」(しんげん)という分かりやすい個所があります。箴言とは格言との意味で、人のいましめとなる短い言葉で、覚えやすい生活の智恵の宝庫です。

「野菜を食べて愛し合つのは、肥えた年を食べて憎み合うのにまさる。」「やわらかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」「知恵を得ることは金にまさり、分別を得ることは銀にまさる」取捨選択に困るほどに、知恵の書葉に満ちています。

箴書は31章ありますから、毎月1日に第1章、2日に第2章、10日は10章というように読むなら、月に一回読むことができ、知恵深い生活を教えられることです。

聖書の中には多くの名書があり、美しい言葉があります。しかし、それらを抜き出して、生活の目標とするだけでは不十分です。

聖書の主題は、イエス・キリストです。ですから聖書の中にイエス・キリストを見いだし、わが主として受けいれることが求められているのです。

聖書は神のことばです。人をまことの救いといのちに導くための信仰の書です。神からの語りかけとして聞き、頭で読まずに、心で読むことが大切です。

最後に聖書の書かれた目的を、聖書自体から見てみましよう。

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたがたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

聖書は神様によって、私たちに与えられました。それは私たちが、信じていのちをえるためであるというのです。「いのち」は、かけがえのないものです。何をもうけてもいのちを失ったら、それは意味のない人生といえるでしょう。聖書が語る「いのち」という言葉には、非常に深い意味がこめられています。

あなたも、聖書によって「いのち」ある人生を追求してみませんか。