9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。

 9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。

 9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。

 9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 

神さまは、イスラエルに神の言葉をお与えになり、律法をお与えになって彼らを導かれましたが、「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」と言われています。律法を守り行うことによって神の義を獲得できるように考えてしまったのです。

 

ローマ信徒への手紙3章20節には、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と言われています。

 

一生涯の間、何の罪も犯すことなく、神の律法を完全に守り行うことが出来る人は、その行いによって神の義を得ることが出来ますが、そのように完璧に神の律法を守り行うことのできる者は一人もありません。ただ一人、神の御子であるイエス・キリストだけがそれを得ることが出来ましたが、主イエス以外の人間は一人の例外もなく、律法を守り行うことは出来ず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、罪がどれほど深刻な問題であるのか。それはあなたによって教えていただかなければ分からない者でした。罪の中にある私たちは、救いを必要とする者であり、自らの力や努力によっては死と滅びに至る以外にはない者でした。そのような私たちを罪と死の中から救い出すために、イエス・キリストをお遣わしくださいました。神の国とその義を与えるために私たちのもとに来てくださった事を心より感謝いたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。