このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。1テサロニケ4:6~7

パウロはここで、私たちがみだらな生活ではなく清く生きる理由を述べています。

それは、終わりの日には神による裁きがあること。神は私たちが清く生きることを願っておられるということです。

昔も今も、この社会は、神によって生かされておりながら、神を求めようとせず、人間が神であるかのようなふるまいの中で、人々の欲望が多くの人々を踏みつけるようなことが起こっています。

ヨハネによる福音書の1章で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:9~12)と言われているとおりです。

言であるキリストは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えてくださいます。

祈り

天の父なる神様、神と人を愛し、聖なる生活をすることが出来ますように、お導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。