2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
「律法」を教えているユダヤ人たちに対して、パウロは次のように述べています。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。」
なぜ、教えている本人がそれを破っているのかというのです。パウロ自身7章18節で、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」と述べています。
パウロは、自分自身のことを振り返っても「律法」に従い得ないものであると告白しているのです。神様が与えてくださった「律法」は素晴らしいものだけれども、自分にはそれを守ることが出来ない。
神の御心を教えられ、生きるべき指針を教えられていても、それを行うことが出来ないのです。これはパウロだけのことではありません。親鸞は、悟りを得るために様々な厳しい「修行」をしましたが、どんなに修行をしても自分自身のうちにある煩悩をなくすことが出来ないことを告白しています。
それは、私たちも同じではないでしょうか。どんなに良いことを教えられていても、修行を積んだとしても、それを実行することが出来ないのです。
祈り
天の父なる神様、自分自身のことを正直に見てみればパウロや親鸞と同じように、自分にはできないということを自覚させられます。そんな私たちを救うために神がそのひとり子を与えてくださった事を心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。