わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。ヤコブの手紙1:2-4
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

私たちは、「試練」や「苦しみ」はできれば避けたいものだと考えるのではないでしょうか。試練や苦しみを経ないで栄光の体にされていくのであればその方がありがたいと思うのではないでしょうか。

 

しかし、実際は、旧約聖書の預言者たちも、主イエスご自身も、その弟子たちも、苦しみを経ないで信仰を持ち続けたという人もなく、信仰の戦いを経ないで神に従ったという人もいないことが分かります。

 

実際のところは、人々を苦しみに遭わせるのは、神ご自身である場合もありますが、ヨブ記にも記されているようにサタンが特に神の民やクリスチャンたちをターゲットにして襲い掛かるということも少なくありません。

 

その場合も、サタンがやりたいように出来るのではなく、神が左端のやり方に制限を設けていることも、同じくヨブ記を見ると分かるのです。すべてをご存知の神であるからこそ、このようにして、試練によって神との交わりを深く持つことが出来るようになり、人生の深みを、神の愛の深さを知ることが出来るように私たちの歩みを導かれるのです。

 

このように見てくると、試練は神の恵みであり、私たちに真理を悟らせ、神を知り、人の傷みを知ることが出来るようにと導き、私たち自身をさらなる聖化へと向かわせ、神の御心に従うための備えを与えられるものであると言えます。主にあって苦しみを経験してきた人だけが、神の恵みの豊かさを知り、それに与ることができるようになるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは私自身のことも、この世界のことも、すべてをご存知であるゆえに、私を主とともにおらせ、あなたの祝福に導きいれるために試練を与えられます。それを喜びとして受け止めるとともに、それを乗り超えて成長していくことができますように、忍耐と練達と希望をお与えください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。