6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

 

ここでイエス様は、貧しいこと、飢えていること、泣いていることそれ自体が、幸せな状況であるとか、理想であると主イエスは言われたのでしょうか。そうではありません。

 

何故なら、元々の文では「貧しい人々は、幸いである、なぜなら神の国はあなたがたのものである」と読むことができるからです。貧しい人々はその貧しさのゆえに幸いなのではなく、神の国が到来しているゆえに彼らは貧しさの中にあっても「幸いである」ことができるのです。

 

ここで「神の国はあなたがたのものである」と言われています。それは将来実現することではなく、また可能性の問題でもなく、すでに今、神の国が来ていて、神のご支配が始まっていることを告げているのです。

 

「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われています。

 

「今」、つまり現在はなお飢えているし、泣いているのです。けれども将来は、満たされ、笑うようになる。この将来とは終わりの日のことであり、神の国が完成するときのことです。

 

祈り

 

天の父なる神様、飢えることそのものは幸いではありません。けれどもあの放蕩息子が飢えるという経験をした時に自らの罪を認識し、父親のところに帰ろうとしていったように、モノが豊かで満ち足りている暮らしでは気が付かなかったことが、飢えるような経験をすることによって、自分は神によって生かされているという物事の本質がようやく分かるようになるということがあるのです。そのようにして神のもとに立ち帰るようになった人は真実に幸いな人生を生きるようになるのです。あなたの恵みによって生かされていることを知ることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。