あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。ローマ2:25~29

 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神から来るものです。(新改訳)

ここには、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」と言われています。神様がご覧になるのは、外見ではなく心であるといわれるのです。

 

1サムエル16:7には、「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」といわれています。新改訳では、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と訳されています。

 

私たちは、うわべで(外見によって)人を評価することが如何に多いことだろうかと思います。

神は、アブラハムに、彼とその子孫に対して永遠の契約のしるしとして割礼を授けることをお命じになりましたが、それは外見上の割礼というよりも、心の割礼、すなわち神への信仰を求めて言われたことは明らかです。

申命記10:16には、「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」とありますが、心の包皮を切り捨てるとは、心の割礼を受けよということに他なりません。

新約の時代になり、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられた後、やがて異邦人たちにも広く福音が伝えられていくようになりますが、こうしたキリスト教においては、割礼を受けることを異邦人たちに求めることはしないで、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ私たちは救われると教えられていくのです。

 

ローマの信徒への手紙では、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28~29)と言われていますが、本当の割礼は、心の割礼(言葉を替えて言えば神への信仰)であるということが分かります。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたはアブラハムとその子孫を祝福すること、またその子孫(具体的にはイエス・キリスト)によって人類が祝福を受けることを約束してくださり、その契約のしるしとして割礼を受けることを命じられました。

アブラハムの子孫であるユダヤ人は、その血のつながりを重んじ、割礼を受けることを強調しましたが、神が求めておられたのは、外見上のあり方ではなく、心の割礼でした。私たちも、真心をもってあなたとともに歩むものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。