生きていて、これが価値のある充実した生活だと思えるような生活をするためには、何が一番必要だと思いますか。
人によっていろいろな答えが返ってくることでしょう。私はすぐに希望と答えます。希望というと何か漠然としていますね。
人が「この事に希望を持っているんだけれど」と言うとき、同時に「でも実現するとは思えないのだけれど」というようなニュアンスがついてきますね。
ですから、多くの人々はなんとなく、ボンヤリとした雰囲気の中で、はっきりしないような夢のようなものを抱いています。希望が明確でないので生活の目指すとこるも明確ではありません。生活の目標が定まっていないと、自分の内面に力がわいて来ないばかりか、意味ある人間関係のかかわり合いができません。
生活の目標が定まってくる
言い換えるならば、希望がはっきりしていると生活の目標が定まり、心には充実感、人間関係には意味ある会話が生まれてくるのです。聖書が語っている希望は、なんとなくよいことが起こればよいのだがなあ、という暖昧(あいまい)なものではなくて、「きっと実現するに違いない」というような期待感なのです。
「この希望は失望に終わることはありません」(新約聖書・ローマ4:5)と聖書は言い切るのです。期待が膨れてくると、それが内面的な確信になり、エネルギーとなって現れてきます。期待感が強ければ強いほど、エネルギーが豊かなのです。つまり期待感とエネルギーは正比例するのです。希望が生き生きしている人には、その人の存在のすべてにエネルギーが潤滑していますので、傍らから見ると確信に満ちて生活しているように見えますし、事実その人は確信に満ちているのです。
心が希望で満ちあふれる
なくなったら、また祈ることができます。祈るとまた希望が流れ込んできます。この繰り返しのなかに希望が強くなり、希望の力を使うことによって行動に勢いが増し、ついに期待していたことが実現していくのです。今まで、このようなお祈りをしたことがありますか。今日から始めてみませんか。
「希望の神様、私はあなたを信じます。聖書の言葉に約束されているように、わたしのうちに希望をみちあふれさせてください」。
短い祈りを繰り返し、繰り返してごらんなさい。ふと気が付いたときに、あなたの心が希望で満ち溢れていくことを感じるようになるでしょう。
希望の神が望みをあふれさす
それでは、これほどまでに生活のすべての面に影響を及ぼす希望はどこからくるのでしょうか。もちろん、希望の源から流れてきます。希望の源は神です。聖書の言葉をきっちり捕らえてください。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和に満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」(新約聖書・ローマ15:13)
私たちが信じているのは希望の神であり、希望の神はあなたを望みであふれさせてくださるのです。望みにあふれたら、人生を好転させる力を自分のものにしたことになるのです。どんなことがあなたの生活に起こってくるか察しがつきますか。ワクワクしませんか。
希望の神に触れるなら
それでは、この希望をどのようにして希望の神から手に入れるのでしょうか。祈りによってです。祈りは神との直接的な触れ合いを可能にするのです。毛細管現象という言葉をご存じでしょう。例えば、タオルの片一方を水で濡らすと、しばらくしてもう片方の水で濡れてくるでしょう。
希望の神と接触したら、当然希望が流れ込んで来ますね。指と指を触れたら、相手の指から温かさが伝わってくるように、神と触れたら神の温かさが私たちに流れて来ますね。その温かさこそが、私たちに希望をもたらすのです。
祈る時希望が流れてくる
一緒に長い間いて交際していると、言葉や考え方だけではなく、顔の表情まで似てくることがあるでしょう。
ゴリラの研究者は長い間になんとなく顔付きがゴリラに似てくるそうです。神様と顔を合わせて、言葉を交わすのが祈りなのです。その結果、神様の考え方や神様の希望がわかってくるのです。神から来る希望ですから必ず実現しますね。
どんなに素情らしい希望でも暗礁に乗り上げたり、挫折(ざせつ〉したりします。希望が意気消沈してしまうこともありますね。ちょうどランプの灯火の油が切れてしまうように、希望のエネルギーを使い尽くしてしまうこともあります。
しかし、供給の源を思い出してください。全知全能の神が希望の供給源なのです。わたしたちのエネルギーは使い尽くしてなくなってしまったとしても、供給源には希望の力でいつもみなぎっているのです。