では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。ローマ6:1~3
それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(新改訳)
律法がはいってきたことによって人間の罪が一層明白なものとなりましたが、それによって神の御恵みの大きさはもっと明らかにされました。しかし、このことをパウロが説明すると、それなら恵みが増し加わるために罪を犯し続けようではないかという人が出てきたというのです。こうした考え方はまったくの誤解であり、神の御心を理解していないことを白状しているようなものです。
このような考え方をする人に対して、パウロは、「キリストによって、救いは全く恵みのみによって与えられる。しかし、それは、生活はどうでもよいということには決してならないのだ」と説明しています。
こうした問題においても、他人事ではなく、私たちは一人ひとりが自分について吟味する必要があります。私たちは、他人の罪に対しては厳しく裁いたり、根に持って決して忘れようとはしないが、自分の心の罪を見るときに、実に寛大になれるという傾向があるのではないでしょうか。「これこれの理由があったから、だからつまずいてしまったのです」と、もっともな理由をいろいろと探し出し、口実を設けることがよくあります。他人の罪に対しては厳しく見るけれども自分の罪に対しては、あまり深く見ようとせず、いつのまにか弁護にまわってしまうという傾向があるのではないでしょうか。
しかし、聖書は、何よりもあの人、この人ではなく、自分自身の罪に目をむけ、神の前に自分の罪を正直に認めつつ、神に頼ることを教えています。
自分自身の罪を神の前に自覚し、このような罪びとのために苦しみを受け、十字架に死んでくださったキリストの愛を知らされたものは、愛してくださった方に真心を持ってお応えしていこうとするに違いないのです。
祈り
天の父なる神様、あなたのお導きによって今日もみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださり、感謝いたします。
様々な弱さを持ち、罪を犯してしまう者です。しかし、だからこそこのようなもののためにあなたはそのひとり子をお与えくださいました。さらに、聖霊をも与えてくださって、あなたのお恵みのうちに導いてくださることを感謝いたします。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。