このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。ローマ6:11~14
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(新改訳)
「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです」という事実をパウロはここで語っています。依然として罪を持ちながらも律法の下にないというのは、私たちイエス・キリストを信じて受け入れたものはすでにキリストによる罪の贖いをいただいているからです。
今から約二千年前に、主イエス・キリストは十字架上で死に、そしてよみがえられました。そのとき、私たちはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえったのです。死んだというのは、罪に対して死んだということです。キリストとともによみがえったのは、神との平和を与えられて、神とともに生きるためです。
このように導かれたのは神の恵みによってであるということを私たちはよく理解しておく必要があります。「可能性志向」とか「ポジティブシンキング」などといわれる運動があります。アメリカのノーマン・ビンセント・ピールという牧師が行なっている”Power of positive thinking”(可能性志向)という運動もあります。これらは、「可能だと思いなさい。そうすれば絶対にできる」と教えています。「できると思えばあなたはできる」ということが主張されています。何度も繰り返し自分に言い聞かせてそう思い込むならば、必ずできようになると考えられています。
これは聖書の教えにかなっているでしょうか。確かに前向き・肯定的に考えることはすばらしいことのように思われます。しかし、それは私たち人間の努力や知恵によって行えることでしょうか。聖書は私たち人間の罪の深さは、そうしたことが出来ないほどに罪が私たちの全体にまで及んでしまっていると教えています。だからこそ、(神の)恵みによって導き、助けていただかなければ、私たちは、自分の罪を自覚することも、神に心を向けることも、悔い改めることも、キリストへの信仰を持つことも出来ないものであることを聖書は教えているのです。
祈り
天の父なる神様、私たちをあなたの恵みによって救われるものへと選び、主イエスの贖いを実現し、それを信じる信仰をも私たちに与えてくださって、あなたとともに永遠に生きる者としてくださることを心より感謝いたします。
罪に向かう思いからお守りくださり、キリストにあって生きることができますように私たちのあゆみをお導きください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。