神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ローマ9:22~24

ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(新改訳)

 

聖書の歴史を見るとき、神がイスラエルを選び、彼らを神の民として導き養ってくださったにもかかわらず、ユダヤ人たちは幾度も神に背き続けてきたことが分かります。こうした歴史を振り返り、人々が悔い改めて神に立ち返るために主イエスは、ぶどう園の農夫のたとえを話されました。

 

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(マタイ21:33~40)

 

このたとえにおいて、主人は神であり、農夫は私たち神にこの世界を任せられている人間であり、しもべたちは預言者たちであり、自分の息子はイエス・キリストのことを表しています。先の聖句には、「寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」とありましたが、神は事実寛大な心で耐え忍んでくださり、罪を持った私たちを罪と死の束縛から解放し、救いに導きいれるために、それぞれの時代に預言者をお送りくださったのみならず、息子をお送りくださり、神の御子の身代わりの死によって私たちの罪を贖うという道を開いてくださったのです。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 

祈り

 

天の父なる神様、神に背き続ける私たちのために、実に忍耐深く、恵みの契約(救いの約束)を守り、多くの預言者たちを遣わしたばかりでなく、預言者たちをも拒否してきた民を救うためにひとり子さえも惜しまずに与えてくださったことを、心より感謝いたします。

あなたを信頼し、あなたともに生きる恵みの世界を心より感謝して、イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。