シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」ヨハネ13章36~38節
ペテロは、これまでの主イエスとの出会いの中で、明らかに主イエスに対する理解も神への信仰も深められていました。マタイの福音書16章では、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と主イエスに対する信仰を告白しています。そしてここでも、「あなたのためなら命も捨てます」と告白したのです。この方のためであれば自分の命をもささげるという信仰へと彼は導かれてきたことが分かります。
ペテロが信仰の告白をしたとき、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)と言われているように、この信仰は神によって与えられたものでした。私たちも、神に導かれて私たちの神への信仰へと導かれた一人ひとりであると思います。
この後、主イエスは祭司長・律法学者たちによって捕らえられ、十字架にかけられることになりますが、ペテロはその時恐れと不安を抱き、主が言われたように、「お前もあのイエスの仲間ではないか」と言われたとき、「私はイエスなど知らない」と三度も主イエスを否むようになります。
これはペテロの失敗ですが、私たちも同じような失敗を神の前にしてしまうことがあるのではないでしょうか。人を恐れて信仰を表明できなかったこと、神のやり方を求めたり、神に委ねることができないで自分のやり方で物事を解決しようとすることもあるのではないでしょうか。
しかし、主は失敗し、主を否んでしまったペテロを見捨てることはありませんでした。彼はなお自らの無力を知らされる中で、心からの悔い改めへと導かれ、キリストの証人として整えられていくのです。
祈り
天の父なる神様、ともするとあなたのことを忘れてしまい、恐れや不安の中で途方にくれてしまったり、あなたが求めておられる御心によってではなく、自分の努力や知恵によって物事を推し進めていこうとしてしまうこともありますが、そうした私たちのあゆみをいつも見守り、支え、主の道へと導き返してくださることを感謝いたします。主にあって生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。