7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
預言者たちの声を聞こうとせず、かえって彼らを迫害してきたのが彼らの先祖たちの姿でしたが、神がお遣わしになったイエス・キリストをも「十字架につけろ」と叫んで殺害してしまいました。そして今度は、神に忠実であったステファノをも殺害してしまうのです。
これはユダヤ人だけのことではなく、神様に対する私たちの姿を表しているということも出来るのではないでしょうか。私たちもユダヤ人たちと同じように多くの恵みを与えられて日々生かされている者ですが、そのような恵みに応えることがどれだけできているだろうかと思うことがあります。
ローマ人への手紙1章20節には、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」と言われていますが、殺害するということはなくても、自分が生かされているにもかかわらず私は神なしに生きていくことが出来ると考えたり、偶像により頼む人は、彼らと同じ罪を犯しているのではないかと思います。
祈り
天の父なる神様、人間の罪が深刻なのは、自分を生かしてくださる根源であるお方を正しく認めることが出来ず、自分の罪自信をも正しく認めることが出来ないところにあります。神無くして生きることが出来るという誤りから私たちを解放し、自由と解放をもたらしてくださるあなたの御手のうちに生きることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。