女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」ヨハネによる福音書4:11~12
これはサマリアの女性との対話の一節ですが、その場所にはヤコブの井戸があり、30メートルあまりの深さであったと思われます。また、その当時、ユダヤ人とサマリア人はお互いに口も聞こうとしないほどに関係が損なわれていました。直前の9節にも、「サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」と言われています。
お互いに差別し、お互いに口をききたくもないという関係は、私たちの人間関係の中にもよくあることではないでしょうか。人種や民族の違い、境遇の違い、性の違い、見た目や考え方の違いなどによって差別をする私たちの中にあって、イエス・キリストは、この時、あえてサマリヤに行き、サマリヤの女性との対話を通して、神にあって互いにひとつになることを教えるのです。
この対話を読んでいくと、サマリヤの女性の主イエスに対する理解が変わっていくことが分かります。最初は、あなたは「ユダヤ人」という差別的な理解だったこの人が、「主よ」という呼びかけに変わり、この方は「メシア」という理解を持つようになっていきます。
人は誰でも、自分のうちにものさし(いわゆる人生観・世界観)をもっています。それによって考え、行動するのですが、自身の経験や出会いによって変えられ、確立されていきます。
サマリヤの女性は、主イエスとの出会いによってその人生観が変えられていきました。他にも、キリストの弟子たちやパウロなどのように、聖書には神に出会って新しい人生へと変えられた人たちのことが記されています。同じように私たちも、聖霊の働きによって主イエスとの出会いを与えられ、変えられてきたのではないでしょうか。
祈り
天の父なる神様、あなたによって教えられるまでは、私はあなたについて誤解していました。自分の知恵から目を離して、あなたの知恵を信じようとしませんでした。自分の限りある理解力を離れて、あなたの大能の力を信じようとしませんでした。しかし、このような者に、みことばをお与えになり、聖霊によって主イエスを信じる者、求めるものとしてくださったことを感謝いたします。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。