「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。使徒26:19~20
こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。(新改訳)
「天からの啓示にそむかず」とありますが、神は私たちすべてのものをただ生かしているだけではありません。天からの啓示を与えてくださっているのです。
パウロは、ファリサイ人として暮らしているときには、自分が神の啓示に忠実に生きているという自負心を持っていました。
しかし、イエス・キリストとの出会いによって、改めて彼は「天からの啓示」を誤って受け止めていたことを知らされ、御礼に導かれて、神の召しに応えていくようになるとともに、ユダヤ人にも異邦人にも、悔い改めて神に従う生き方をするようにと宣べ伝えて来たというのです。
パウロは、「天からの啓示にそむかず」と語りましたが、天からの啓示は、絶えず私たちに与えられています。電波は流れていますが、それに合った周波数にこちらの受信機を合わせなければ受信出来ないように、私たちも神が与えておられる周波数に私たち自身を合わせていく必要があります。
そのためには、私たち自身が砕かれ、自身の無力を知らされ、頼れるものは神以外にないということを身を持って体験する必要があるでしょう。パウロだけではありません。モーセもダビデも、使徒たちもみなこうした体験を通して神の啓示を受け止められるように導かれてきたのです。
私たちは、目先のことに捕らわれて、天からの啓示をなおざりにしがちではないでしょうか。待つようにとの啓示にあずかっても、最後まで待つことができず、人間的な手だてに走ってしまうこともあります。また、行動するようにと教えられていても、御霊に委ねて行動することがなかなか出来なかったりすることもあります。私たちの主の御声を聞き、それに従うことが出来ますようにと祈り願います。
祈祷
天の父なる神様、天からの啓示をいただき、主イエスの救いの恵みにあずかり、御霊の導きの下で神とともに生きることができるように導かれていますことを、心より感謝いたします。あなたの御声を聞き、それに従い歩む者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。