22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
イエス様は、ファリサイ派の人々に対して、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とお尋ねになると、彼らは「ダビデの子です」と答えました。これに続いてイエス様は、「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」とお尋ねになりました。
ここでイエス様が問題とされているのは、「メシアはダビデのような王なのか」ということです。ファリサイ派の人々が期待していたのは、ダビデのような王、イスラエルの国をローマ帝国の支配から解放する政治的、軍事的な王であったのです。しかし、イエス様は、そのような彼らの期待に対して疑問を投げかけているのです。
ダビデはメシアのことを「わたしの主」と呼んでいます。メシアは明らかにダビデと同等の方ではなくて、ダビデの主であるお方なのです。「主」とは、単に偉い人ではなくて、神ご自身であるお方を現わしているのです。
祈り
天の父なる神様、ダビデ自身がメシアをわたしの主と呼んでいることから、来るべきメシアはダビデのような王を超えた、ダビデにとっての「主」、すなわち神ご自身であるお方が、イエス・キリストとしておいでになられた事を表わしています。ダビデの主は私たちの主でもあるお方です。そのような救い主をお遣わしになったことを心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。