26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

イエス様は二度目に向こうへ行ってこう祈られました。「わたしの父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。ここで、イエス様はもはや御自分の願いについてよりも、父なる神様の御心が行われることを祈っておられます。

イエス様は父なる神様との祈りの交わりの中で、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という自分の願いよりも、御自分がこの杯を飲むという父なる神様の御心が行われることを祈り求めておられます。そのようにして、イエス様は、祈りの中で、御自分の意志を父なる神の御意志に従っていかれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下には、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」と言われています。

この御言葉は、「ゲツセマネの祈り」のことを言っていると考えられています。イエス様は、苦しみを受けて十字架につけられ、父なる神の裁きを受けて下さるという杯を飲むことを、父なる神の御心として受け入れ、父なる神の御心が行われることを祈り願っておられます。

イエス様のこの言動の故に、ヘブライ人への手紙は、続けて、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」と記しているのです。イエス様は祈りにおいて、父なる神様の意志に御自分の意志を従わせることにより、父なる神の御心を御自分の心とされたのです。イエス様は、「あなたの御心が行われますように」という祈りによって、父なる神の御意志よりも、自分の意志を重んじるという誘惑に打ち勝たれたのです。

祈り

天の父なる神様、父なる神の御心に最後まで従い抜かれたイエス・キリストによって、私たちの罪が贖われ、神の国の民とされている恵みを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。