26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
イエス様を引き渡そうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めていました。ユダはすぐイエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻しました。
ここでもユダは、イエス様を「主」とは呼ばずに、「先生」(ラビ)と呼んでいます(26:22、25参照)。そして、「こんばんは」と挨拶したのです。ここで「こんばんは」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「喜びなさい」となります。「先生、喜んでください」。そう言って、ユダはイエス様に接吻したのです。
接吻は、親しい間柄において行われる行為です。愛情の表現です。しかし、ユダはその愛情の表現を、裏切りの合図として用いたのです。そのことを、イエス様はご存じでありました。それゆえ、イエス様はこう言われたのです。
「友よ、しようとしていることをするがよい」。そして、このイエス様の言葉の後で、人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえたのでした。旧約聖書にヨブ記という書物がありますが、そこで悪魔は神様の許可を受けて、ヨブに災いをもたらします。神様が許された範囲で、悪魔はヨブに災いをもたらすのです(ヨブ1:12、2:6参照)。
ここも同じ書き方がされています。イエス様が、「しようとしていることをするがよい」という許可を与えられて始めて、人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえることができたのです。この時とこの場の一切を取り仕切っておられるのは、イエス様であられるのです。
祈り
天の父なる神様、苦しみを受け、十字架につけられるという事の内にも、神の御手があり、すべては神の御心の通りに事は実現されていきました。イエス様は従順に父なる神の御心に従って行かれました。このことによって私たちの救いの道を拓いてくださった事を心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。