キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。ヨハネの手紙第一3:16-18

 

聖書には、神は、口先だけの方ではなく、約束なさったこと、言われたことは必ずその通りに実現してくださる方であることが示されています。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」とありますが、それは私たちが、立派であったからとか、神に忠実であったからではありません。むしろ、神に不忠実であった者、罪を犯して神に背き続けてきたような私たちを、これほどに愛してくださったということです。

 

愛は行動を伴うものです。「ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」と言われていますが、イエス・キリストのご生涯を見れば、主イエスの言葉と行いは一致しており、仕える愛をもって一人一人に接していかれたことが分かります。

 

しかし、私たちのこの世界には、言葉と行いが一致しないこと、言葉だけは、耳障りの良いことを語りながら、実際の行動にはつながっていないというようなことがたくさんあるように思われます。

 

私たち自身も、そうしたことにおいても自らの限界を感じているのではないでしょうか。人を愛したいけれども出来ない、そのように自覚しつつ、それ故に神により頼むのがクリスチャンです。自分の我力でそれをしようとするのではなく、聖霊が我が内にいて働き、導いて、ことを行わせてくださるのです。

 

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちの神は、私たちを罪と死の束縛から救い出すために、その一人子をお送りくださり、ご自分のいのちをお捨てになりました。これほどの愛をもって私たちを愛しておられるのに、私たちはなんと鈍い者なのでしょうか。あなたの真実と愛の深さ、広さを教えてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。