だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。ローマ13:5~7

ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。(新改訳)

 

パウロは、上に立つ権威に従うようにと記しました。聖書が上に立つ権威ということではっきりと指し示していることは、神に聞き従うことですが、ここでは、「私たちは、政府に対しても、神が与えた他の権威に対しても、尊敬の心を持ってその権威に従うべきであると教えているのです。

 

これは、クリスチャンが国家や為政者に対してどのように考え、また行動していけばよいのかということに関わっています。この世において神が契約的組織として与えてくださっているものとして、国家、教会、家庭をあげることができます。家庭の場合、父と母は、神によって家庭における権威を委ねられていますが、子供を虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになります。

 

エフェソ6章1節以下には次のように言われています。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」

 

このように、国家、教会、家庭のあり方を見てくると、基本的には同じものであることが分かります。しかし、家庭においてはその影響を及ぼす範囲は小さいのですが、国家となるとその国民全体、あるいは外国に対してもその影響は大きくなるということが出来ます。それだけ、任されている責任が大きいということです。

 

その家庭や群れのうちに立てられているリーダーは、主の御心を求めつつ、その御心に従って家庭やその群れを治めることが求められています。言葉を代えて言えば、国家の為政者も、教会の牧師も、会社の社長も、家庭の親も神によって立てられたリーダーであり雇われ社長であるという自覚を持つことも大切です。ダビデは、王でありましたが、自分は神によって王とされたという自覚を失うことなく、主に従う信仰によって歩んだのでした。

 

また、その構成員である群れに属する民は、その群れのリーダーに従うことが求められています。聖書の歴史を見ても、現在の私たちの国の為政者を見ても、リーダーも罪があり欠けもあることが分かります。しかし、神が与えた権威に対して尊敬をもって従うことが求められています。

 

民主主義的な政治の場合は、リーダーたちが悪ければ、それを批判し、さらに優れた別のリーダーたちが与えられるように働きかけることは正しい事です。

私たちの国の憲法においては、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」が掲げられていますが、こうした理念を守り続けるためにも、誤りを犯した為政者たちを批判することは、重要なことでもあります。

 

祈り

 

天の父なる神様、上に立つ権威にしたがうことを教えられました。しかし、聖書に出てくる為政者たちの中で神に従った為政者たちはまことに少ないことを思います。それは、この世の異邦人たちの為政者たちはなおのことという感があります。どうか私たちの国の為政者たちがあなたを畏れ、国民を愛し、人々に仕える者としてその責任を果たすことが出来ますように。私たちも主が私たちにしてくださったように神と人とに仕えることが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。