11:16 もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。

11:17 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。

11:18 多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。

11:19 賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。

11:20 実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。

11:21 言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。

 

パウロはかつてはガマリエル門下で薫陶を受けたファリサイ派の一人でした。日本で言えば東京大学を首席で卒業し、将来は官僚か大臣としてユダヤ最高議会の議員として働くことが出来るような人でした。彼は人間的に見ても誇れるようなものをたくさん持っていたのです。

 

フィリピ信徒への手紙でパウロは次のように記しています。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:4~8)

 

パウロは、自分自身について誇ろうと思えば誇れるところはいくらもあるのに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失」とみるようになりました。私たちの救い主として来られたイエス・キリストがあまりにも素晴らしいために、それ以外のものはすべて色あせて来るのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちも人間的な意味で誇ろうとする思いがあったり、他の人よりも抜きん出ることを求めることもあると思いますが、イエス・キリストを知ることによって、より優れた新しい考え方、生き方へと導かれることを感謝いたします。へりくだってあなたの恵みのうちを歩み続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。