27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」

イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨30枚で売り渡し、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いましたが、彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言いました。ここで「お前の問題だ」と訳されている言葉は、新改訳聖書では、「自分で始末することだ」と翻訳しています。

これを聞いて、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだのです。ユダはイエス様を銀貨三十枚で祭司長たちに売ったわけです。その売買契約を撤回しようとして、銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとしたのですが、断られたので、当時の習慣に従って受け取った金を神殿にあずけたと考える人もあります。

ユダは、他の弟子たちがイエス様を「主」と呼んだのに対して、「先生」「ラビ」と呼んでいました。ユダは後悔して、自分のしたことを無かったことにしてもらおうと祭司長たちのもとへ行き、罪を告白しましたが、祭司長たちの「自分で始末をつけることだ」という言葉を受けて、ユダは首をつって死んだのです。

ユダの自殺について、カール・バルトという神学者は、次にように述べています。「彼は、以前から、自分自身の審判者であろうと欲していたのではないか。・・・・・・彼は・・・・・・神の裁き・・・・・・を、神の自由な裁きとして受け取ろうと欲せず、したがって、神の御手から待ち受けず、むしろ、彼はまた、神の裁きをも自分自身の手に取り、自ら自分に対して執行しようとするのである」(『イスカリオテのユダ』65、66頁)。

ユダは首をつって死んでしまいました。そのことについて、カール・バルトは、それはユダが自分自身の審判者であろうと欲していたからだと言うのです。ユダは神の裁きに委ねることをせず、自分の手で自分自身に裁きをくだしたのです。

イエス・キリストを主と告白し、自らをその僕と語る使徒パウロは、「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。・・・・・・わたしを裁くのは主なのです」と語りました(一コリント4:3、4)。しかし、イエス様を主とせず、自分を主とするユダは、自分の手で自分自身に裁きを下してしまったのです。

祈り

天の父なる神様、ユダは自分で自分を裁くという事をしてしまいましたが、私たちも罪を犯してしまったとき、あなたの前に正直に自らの罪を認め、悔い改めることが出来ますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。