5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
「正気であるなら」というのは、口語訳聖書では「気が狂っているのなら」と訳されていました。パウロに対して気が狂っていると言っている人がいたのでしょう。この手紙の11章23節で、「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」と言われています。
パウロは、まるで気が狂っているかのように見えるほどに福音宣教のために働いてきたのです。23節以下には激しい迫害に遭ったことが記されていますが、そのような迫害にもかかわらず、御霊に導かれ、その信仰と生活が守られているがゆえに、愛をもって宣べ伝えずにはいられないのです。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」と言われているとおりです。「一人の方がすべての人のために死んでくださった」というのはイエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださった事を表しています。イザヤ書53章4節には「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」とあり、同じく5節には、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と言われています。
私のためにイエス・キリストが十字架の苦しみを受けてくださるほどに、私を愛してくださった。その愛に、パウロは応えていこうとする志を与えられているのです。
祈り
天の父なる神様、私たちの罪を贖うためにそのひとり子であるイエス・キリストをお遣わしくださり、貴い代償を払ってあなたの恵みにあずかる者としてくださることを心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。