7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
神様がモーセによってイスラエルの人々に与えて下さった十戒に代表される律法が、ここで「命の言葉」と言われているものです。ここでステファノは、「先祖たちに伝えてくれた」とは言わずに、「わたしたちに伝えてくれた」と語っています。モーセの言葉は、先祖だけではない、今、生きている私たちに語られている言葉なのです。
なぜなら、それは、今も生きて働いておられる栄光の神の言葉だからです。ステファノの言葉は、モーセと律法をけなすものではありません。ステファノは、モーセと、彼を通して与えられた律法について正しく語ることによって、自分もまた神によって立てられている主の僕であることを明らかにしています。
ステファノは、さらにモーセと主イエスを重ねるようにして語っています。ステファノは、律法を「命の言葉」と呼びましたが、牢獄から12使徒を解放した天使によれば、イエス・キリストの福音こそ、「命の言葉」でした(5:20)。つまり、律法もイエス・キリストを指し示すものであることが暗示されているのです。
こうして、先祖たちがモーセに従おうとせず、彼をしりぞけたように、最高法院の議員たちも、イエスに従おうとせず、使徒たちを通して語られる「命の言葉」をしりぞけ続けていることを指摘しています。
この先祖たちの不従順が明白に示されたのが、金の子牛の事件でした。先祖たちは、エジプトをなつかしく思い、アロンにこう言いました。「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。」
金の子牛の出来事は、出エジプト記の32章に記されています。彼らは、24章において、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」といい、雄牛の血を振りかけることによって、主と契約を結んだにもかかわらず、はやくも堕落してしまったのです。
シナイ山に登ったモーセを待ちきれなくなり、不安になった彼らは、金の子牛という目に見える保証を求めたのです。ステファノは、ここで、「エジプトを懐かしく思い」と記しています。おそらく、金の子牛もエジプトでなじみのある神々の像だったのでしょう。
イスラエルの民は、偶像の家であるエジプトから、まことの神を礼拝する民として導き出されたにも関わらず、主なる神を信頼することが出来ないで偶像をつくり、「これこそあなたをエジプトの国から導きだした神々である」と宣言したのです。イスラエルの民は、その律法を与えられた当初から、神に背く者たちだったのです。
最高法院の議員たち、また、ステファノを訴えた者たちは、自分たちが律法を与えられた神の民であることを誇る者たちでしたが、イスラエルの民は神の民としてふさわしい者ではありませんでした。
祈り
天の父なる神様、イスラエルの民は、神の律法に従いますと誓ったにもかかわらず、神に従うことが出来ませんでした。そのため神様は、やがてメシアである救い主を遣わすことをお語りになり、時満ちて神の御子イエス・キリストをお遣わしになったのでした。あなたの深い憐みと恵みを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。