8:7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8:8 町の人々は大変喜んだ。
不思議な業やしるしは、啓示としての意味をもっております。隠されている神様の御心を表す、啓示としての意味を持っております。ですから、啓示の書である聖書が完結し、私たちの手元にこのように届けられている今、不思議な業やしるしは止んでいます。
聖書を通して、私たちは神様の御心を知ることができるわけですから、もう不思議な業やしるしは必要がなくなったのです。それで、現代の私たちが、フィリポのように不思議な業を行うことはできません。しかし、今の時代にも変わらないものがあるのです。それが8節に記されている「喜び」です。
私たちは、サマリアの人々のように、実際に、病や障害が癒やされたわけではありません。しかし、この人々と同じように喜んでいるのです。なぜなら、私たちは、このサマリアの人々に起こった出来事が、やがて私たちのうえにも実現することを知っているからです。
そのことを私たちに教え、希望を与えるために、聖書は、フィリポによって、多くの人々が癒やされたことを記しています。フィリポが行った癒やしは、イエス・キリストが天から再び来られ、神がすべてのすべてとなられるとき、もはやそこには、何の病も障害もないことを教えているのです。ある人は、喜びこそ、救われたことの何よりのしるしであると語っています。
イエス・キリストを通して表された父なる神様の愛を知るとき、私たちは、喜ぶことができるのです。神様が、愛する御子を十字架にお渡しになったほどに、私たちを愛してくださったことを知るとき、ユダヤ人やサマリア人、中国人、日本人という民族の枠組みを越えて、共に喜ぶことができるのです。
神様を喜ぶことによって、その神様から愛されている自分自身を、またここに集う全ての人を喜ぶことができるのです。
祈り
天の父なる神様、私たちに将来と希望を与え、喜びをもたらしてくださる恵みを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
