3:7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、

 3:8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。

 

 

「モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光」と言われているのは、出エジプト記に記されている、モーセが神様から十戒をいただくために山に登って行ったあとで、モーセの顔が輝いていたことについてのことです。

 

出エジプト記34章29節以下には次のように言われています。「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。」(出エジプト記34章29~32節)

 

モーセは、山に登って神との会見の場を与えられた時、「自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っている」状態になりました。神様は生命の根源であるお方ですから、神との出会いによってあらゆる命ある者は輝くことが出来るのです。

 

私たちが礼拝を捧げる時も、神様との出会いを与えられる時です。モーセはこの時、大いなる喜びにあふれたに違いありません。

 

祈り

 

天の父なる神様、すべて命ある者はあなたによって生かされています。それは体の命ばかりではなく、魂の命をもあなたによって与えられ育まれていくものです。モーセの顔の輝きは一時的なものでしたが、永遠の命に生かされることを覚えて、主にあって歩み続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。