44:30 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、
44:31 この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
44:32 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。
44:33 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
ユダによる懇願が続いています。父親の気持ちを察して、なんとしてでもベニヤミンを連れて帰らなければならないというユダの心は、失われてしまっている羊を探し求めようとするイエス・キリストの御心に通じるものがあるのではないでしょうか。
主イエスは、父なる神の御心を行うために、罪びとを招くためにこの世に来てくださいました。それは罪の世界であり、キリストを受け入れようとはしない世界でした。罪人を招き、その罪を贖うためにはご自分が苦しみを受け、命をささげる以外にないことを知りながら、人としてこの世界に来てくださったのです。
ユダによる懇願は、彼のいのちをかけての懇願でした。このために自分の命が奪われるかもしれない。けれども、父を愛し、ベニアミンを資するがゆえに、自分のいのちを犠牲にしてでも、ベニヤミンを父のもとに返さなければならないと考えているのです。
祈り
天の父なる神様、あなたがそのひとり子を犠牲にしてまでも、失われていた私たちを罪と死の中から救い出してくださる愛を感謝いたします。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。