では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。ローマ3:27~31

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(新改訳)

 

旧約聖書のハバクク書2章4節には、「神に従う人は信仰によって生きる。」と言われています。口語訳聖書では、「義人はその信仰によって生きる。」と言われています。今日のみ言葉にも、「信仰によって義とされる」ことが述べられています。

 

パウロは、「主イエスを信じる者を義と認めてくださる」ということを26節のところで説明しました。そして、「律法ではなく、行いによってではなく、キリストの十字架のみによって」、すなわち、キリストの十字架を信じる信仰によって救われるということを述べているのです。

 

神のみことば、神の啓示は、先ず最初にイスラエルに与えられましたが、もともとのみこころは、ユダヤ人と異邦人とを問わずすべての人が神に立ち返って救われることでしたから、このみことば、この救いのメッセージはエルサレムから始めて、地の果てに至るまで、世界中に伝えられていくのです。

 

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)この言葉の通りに、今では世界中に神の救いの福音が伝えられるようになりました。

 

「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」と言われていますが、現在の私たちの根本的な問題は、私たちが自分を創造し、自分を生かし、育んでいてくださる神を知らず、神を求めようともせず、礼拝もせず、感謝しようともしていないことにあります。神によって生かされておりながら、自分を生かしておられる神を知らないのです。

 

創造主であり唯一絶対なる神は、異邦人の神でもあり、ユダヤ人の神でもあり、すべてを支配しておられる神であられます。神が唯一であるなら、唯一まことの宗教しかあり得ないのです。今日も私を生かして下さる神は、みことばによってあなたを招き、あなたはわたしのものだと言ってくださいます。

 

祈り

 

天の父よ、キリストのあがないによって、信仰によって大胆に栄光の御座に近づくことが出来ますことを感謝いたします。

私たちは、み言葉によって教えられなければ父であるあなたを知ることもなく、求めることもなかった者ですが、異邦人である私たちをもあなたの子供として受け入れ、天にその名が記されていることを感謝いたします。

感謝してイエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。