イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネの福音書16章31~33節

 

これは、この後十字架にかかられる時、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出してしまうことを予告するとともに、その後の弟子たちの働きのために主イエスがともにいて彼らを導いてくださることが教えられています。

 

弟子たちは、主イエスとともに歩んだ3年余りの生活の中で、次第にその信仰も培われてきましたが、彼らは、ここで予告されているように、主イエスが捕えられ、十字架にかけられる時には、その場を逃げ出してしまいました。ペテロの場合には、大祭司の中庭で隠れるようにしてその様子をうかがっていましたが、「あなたもあのイエスの仲間でしょう?」と問われた時、「私はイエスなどは知らない。」と主を否んでしまうのです。

 

私たちも、「私は信じます」と考えていても、あの弟子たちと同じような弱さを持っているひとりひとりです。罪や失敗を犯してしまうこともしばしばです。しかし、そのような私たちを打ち砕いて、さらに主の御業のために遣わされるのです。

 

この罪の世界にあっては、クリスチャンたちは「あなたがたには世で苦難がある。」と言われるように、さまざまな苦難があります。聖書を読むなら、苦難を経験しない神の民はいないことが分かります。サタンは、他の誰よりもキリスト者をターゲットにして苦しみに会わせようとするものです。

 

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われているように、主イエスはすでにサタンに勝利しており、主イエスを信じて受け入れるものをも勝利の人生へと導いてくださいます。

主イエスがサタンから受けた荒野の誘惑は、サタンが何としてでも十字架への道を阻止しようとしたものですが、主はそうした誘惑や妨害にもかかわらず、私たちを罪からあがない、神とともに生きる復活のいのちに与らせるために、十字架による苦しみを身に受けてくださったのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの恵みによってメシアを知り、主にあってともに生きることができますことを感謝いたします。弟子たちは、主が言われたように十字架にかかられる時には、逃げ出してしまうような有様でしたが、あなたはそのような弟子たちをお見捨てにはならず、聖霊を与え、信仰を強め、あなたの使命を行なう者としてくださいました。私たちも主にあって生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。