23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の人々が「言うだけで実行しない」と言われました。その具体的な例がここに記されています。つまり、彼らは律法を実行していたとしても、その動機は神様への愛と隣人への愛からではなく、「すべて人に見せるため」だったのです。
イエス様は、22章40節で、律法全体と預言者は、全身全霊をもって神を愛することと自分のように隣人を愛することの二つの掟に基づいていると言われました。それは言い換えれば、神への愛と隣人への愛から神の掟を行うのでなければ、本当に行ったことにはならないということです。
神様は、心の思いを見抜かれるお方ですから、その動機を問題とされるのです。律法学者たちとファリサイ派の人々、彼らは神の掟を守ることに熱心な真面目な人たちでした。しかし彼らの心の内にある動機は、神への愛と隣人への愛から出ているものではなかったようです。
「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」とありますが、出エジプト記13章9節に、「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない」とあります。当時の人々は、聖句を書いた紙を入れた小箱を額と左の二の腕に帯で結び付けて祈りをささげていたのです。
律法学者たとファリサイ派の人々は、その小箱を大きくして目立つようにしました。そのようにして、自分がいかに信心深いかをアピールしていたのです。また、主なる神は、イスラエルの人々が御自分の命令を思い起こして守るために、衣服の四隅に房を付けるよう命じられました(民数15:38、39参照)。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、その房を長くすることにより、自分たちがいかに信心深いからをアピールしたのです。イエス様は、彼らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれることを好む」と言われますが、ここで「先生」と訳されている言葉は、「ラビ」という言葉で、元々の意味は、「わたしの偉大な方」という意味です。
彼らは他の人々から、自分たちが信心深い、偉大な者として重んじられることを重視したのです。彼らは神を愛して神様の掟を行ったのではなく、自分が人から重んじられるために神の掟を行ったのでした。口先では神を敬いながら、心は神様から離れていたのです。それゆえ、イエス様は、彼らについて「言うだけで、実行しない」と言われたのです。
祈り
天の父なる神様、人々はうわべを見て人を判断することが多い者ですが、あなたは心をご覧になるお方です。まごころから神を愛し人々を愛する者とならせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。