しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。ローマ5:15~17
ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。(新改訳)
ひとりの人アダムによって人類に罪と死が入ってきましたが、主イエスの到来によって神の恵みによって新しい時代が来ていることが記されています。
私たちは、自分自身の罪がどれほどのものであるのかについて、この社会のものさしによって計る習慣が身についていますので、人と人との比較によってそれを判断する程度のことで理解したつもりになっています。
しかし、神によって教えられるとき、神を基準にして考えていく時に、自分の罪の深さとともに、神によらなければ決して救われることはない、神の恵みによらなければ救われることがないという、罪と死の中に捕われてしまっている自分を見出すのです。
次の言葉は、パウロ自身の告白です。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:18~24参照)
この告白は、神の恵みによらなければ私は救われないという告白です。
裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。と言われているように、私たちは999回信号無視はしませんでしたが、1回だけ信号無視をしたために事故を起こしてしまったなら、その1回の失敗、1回の違反が罪に問われるのです。
このことに関して私たちは弁解の余地はありません。しかし、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。と言われています。神の恵みとは、罪ある者を、その人の功績や行いによらず、ただ神の恩恵によって救いに招き、罪を赦し、神のいのちに導きいれてくださるということを表しています。この恵みは、イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活において現わされているものです。
祈り
天の父なる神様、罪の中にあって滅びるべき私たちを救うために、あなたはこの聖書の歴史が現わしているように、私たちにもあなたの恵みを与えてくださいます。ただ恵みによって私たちを救ってくださるあなたの愛の深さを私への愛として受けとめていくことができますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。