21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

 21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

 

「都に帰る途中」イエス様は空腹を覚えられました。それで、道端にいちじくの木があるのを見て、実がなっていないかと思って近寄られたのです。しかし、葉のほかに何もありませんでした。そこで、イエス様が「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのです。

 

これだけ聞くと、イエス様が空腹のいらだちから、いちじくの木を枯らしてしまわれたように思えます。しかし、そうではありません。このことにはもっと深い意味が込められているのです。イエス様は実のないいちじくの木をたちまち枯らしてしまうことによって、御自分がイスラエルを裁くメシア、救い主であることを弟子たちにお示しになったのです。

 

旧約聖書において、イスラエルの民はしばしばぶどうの木やいちじくの木に譬えられています(エレミヤ8:13、ミカ7:1参照)。私たちはイエス様が神殿から売り買いしていた人々を皆追い出し、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたことを読みました。

 

神殿では傷のない動物が売り買いされ、活気はあるのです。いちじくに譬えるならば、葉は茂っているのです。しかし、そこには、祈りがなく、実がないのです。礼拝が形式化しており、祈りの心が失われてしまっていたのです。また、イスラエルの指導者である祭司長たちや律法学者たちは、イエス様の驚くべき業を見ても驚かず、イエス様をダビデの子として受け入れませんでした。

 

それどころか、彼らは子供たちの賛美をも黙らせようとしたのです。そのようなイスラエルといういちじくの木に対して、イエス様は、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたのです。「葉のほか何もなかった」のを見て、「実を生じさせた」のではありません。そうではなくて、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたのです。そして、その御言葉どおり、たちまちいちじくの木は枯れてしまったのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、いよいよご自分の十字架の死が近づいている時、イエス様は神殿で売り買いしている人たちや子供たちの賛美をも黙らせようとしている人たちのことを象徴している実を実らせていないイチジクの木を枯らしてしまいました。来るべきメシアが来たのにそれを認めることが出来ない者ではなく、メシアを信じて身を実らせていく者となることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。