5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

 

「柔和な人」を辞書で見ると、「優しくて穏やかな人」と言われています。そのまま受け取ってもよいと思いますが、山上の説教においてイエス様が言っておられるのは、人間が生まれながらに持っている気質ではなくて、聖霊によって新しく与えられた気質がとても重要であると言えます。聖霊によって新しく生まれるということです。

 

イエス様が「幸いである」と言われる「柔和な人々」について考えるとき、イエス様が言われる柔和さ、優しさ、穏やかさは、自らの罪と他の人々の罪を悲しむ心を源とすることが分かってきます。先に記されていた「心の貧しい者」「悲しむ者」としての心を持つがゆえに「柔和な者」となることが出来るのです。

 

イエス様は十字架につけられる時にも、「「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言われました。また、パウロも1コリント4章において「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(1コリント4:11~13)と述べています。これは神から出た柔和と言えると思います。そのように、自分に危害を与えようとする人にも穏やかに赦しを求める心は、神から出ているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたが与えて下さる柔和な心で人々に接することが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。