22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 

神様がアブラハムに、その子イサクを燔祭としてささげよと命じられたことについて、「試練とはいえ、これほどの試練を与えるのは酷ではないか。」「神様がこんな命令をするとは考えられない」ということを私も感じたことがありました。

 

主イエスは、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11~12)と言われました。神を信じる者が祝福に与るというメッセージはよく理解できたとしても、信じる者が「迫害を受けたり、悪口を浴びせられたり」するということは理解に苦しむところがあるかもしれません。

 

しかし、現実にはこうしたことがあるのです。主イエスは父なる神の右の座についてこの世界を治めておられるのですが、サタンや悪霊の働きをもある制限をもって許容しておられるのです。そして主イエスの十字架の出来事にも見られるようにそのような悪の働きさえも用いられてその御心を実現していかれるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、神がおられるならなぜこの世界に悪があるのか、善人が迫害されるようなことがあるのかと知恵の乏しい私たちは思ってしまいます。しかし、私たちの心は根本において罪に染まっていますので、苦しみや試練がなければ真理を悟ることが出来ないことを思います。砕かれたへりくだった思いをもってまことの道を見ることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。