8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

 8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

 

8章になって、パウロは、コリントの教会から寄せられた、「偶像に備えた肉を食べてもよいのか」という質問に答えています。日本もそうですが、当時のギリシャの社会も多神教の社会でした。そしてコリントにおいても様々な神々にお供え物がささげられて、それが人々にふるまわれるという事があったのです。当時は、神殿に関わる食堂において食事をいただくという習慣があったのです。

 

日本の場合であれば、今はかなり少なくなりましたが、以前は葬儀があればお寺で食事をいただくこともよくありましたし、神社の敷地にある公民館で食事をいただくこともあるかと思います。

 

コリントの教会の人たちは、そのような場合に偶像に備えられた肉を出された場合、それを食べてもよいのかどうかという事が問題となっていたようです。

このことについてパウロは、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」と答えています。

 

「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」という言葉は、ソクラテスの「無知の知」という教えにも通じるものとも思われます。多くの知識を得るという事よりも何よりも神の前にひれ伏し、神への愛に生きることが重要であるというのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」とのみ言葉を覚えつつ、へりくだって愛に生きる者となることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。