兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。1テサロニケ2:1~2

ローマ8:28には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と言われています。今日の聖句もそのことを記していると思われます。

「フィリピで苦しめられ、辱められたけれども」と訳された言葉は、他に「・・・苦しめられ辱められたにもかかわらず」と訳されているものもありますが、ここではむしろ、「苦しめられ、辱められた」ことがテサロニケでの大きな苦難を絶えやすくした原因とされているようです。

使徒9章15~16節で主イエスはアナニアに、パウロが苦しむのは、主の福音を宣べ伝えるためにご自分が選んだ器であることを告げておられます。パウロにとっては、キリストを宣べ伝えるが故の苦しみは、彼が真の弟子であることのしるしであり、使徒としての権威の裏付けでもあったのです。

祈り

天の父なる神様、神に従おうとした民やキリストの福音を伝えようとする者は誰でもそのための苦しみを受けることを教えられますが、その苦しみを通してあなたは私たちを真実に神と共に生きるものへと整えてくださいます。すべてのことを益に導いてくださることを覚えて、あなたの御心に従うものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。