二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

「目が開かれる」というと、一般的には良い意味でつかわれることが多いでしょうが、ここでは悪い意味で目が開かれたということになります。それまで罪を知らず、善や正義、心の平安、愛と平和、命というものしか知らなかったものが、罪が入り、悪と不正、苦しみや憎しみ、偽りや争い、死というものを知るようになったということです。

「裸であること」を知って、いちじくの葉で隠すとともに、主なる神の顔を避けて隠れるようになったのですが、私たちはすべてのことをご存知である神の前から隠れることはできません。人を欺いたりごまかしたりすることはできても、神は私たちのすべてをご存知であるお方ですから、神のもとから隠れようとしても無駄ですが、聖なる神のもとから隠れようとするところに、彼らには後ろめたさがあることが示されています。

そんなアダムとエバに対して、神は、「どこにいるのか」と呼びかけられました。これは神には彼らがどこにいるのかわからなかったということではありません。ここには人間の応答を求めて待ち続ける神の姿があります。

祈り

天の父なる神様、罪の後ろめたさを感じて、神のもとから隠れようとする人間に対して、生きるために必要な手立てとともに忍耐をもって待ち続けてくださる恵みを感謝いたします。愛をもってあなたの呼びかけに応えて生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。