5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

旧約聖書の時代にも偽の預言者がおりましたが、パウロの時代にも偽の預言者たちがいて、彼らは造り主であるまことの神から私たちを引き離そうとしたり、自分たちの都合の良いように聖書を解釈して真理から外れてしまうようなことを語っていたのです。

 

例えば、神は憐みの神なので、私たちが罪を犯しても裁かれることはないなどと主張する人たちがいました。だから自分の好きなことをしてこの世の人生を楽しめばよいなどと語る人もいたのです。

 

そのような人たちに対して、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と述べています。

 

ここで、パウロは人間一般的な裁きについてだけではなく、キリスト者の裁きについても教えています。イエス・キリストを信じる者は、神様の御前に正しい者とされます。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10:13)のです。

 

ですから、私たちは滅びに定められることはありません。しかし、私たちは救われた者たちとして、キリストの裁きの座の前に立つことになるのです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)と言われているとおりです。

 

救われた者たちとして、どのように生きたかが問われるのです。私たちは行いによってではなく、神の恵みによって、信仰によって救われるのですが、神の恵みにあずかるようになった者として、ひたすら主に喜ばれる歩みをしていきたいと願うのは当然のことなのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの恵みのうちにこの生涯を生きることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。