8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

 

7節には、「そこで、イエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた」とありますが、このところは、実は疑問文にも訳すことができます。例えば、岩波書店から出版されている新約聖書では、「私が行って、彼を治すのか」と翻訳されています。

 

もとのギリシャ語には、英語のようなクエスチョンマークはありませんので、平叙文にも疑問文にも訳すことができるのですが、疑問文に翻訳するならば、イエスさまは、「私が行って、彼を治すのか?」と言われることにより、百人隊長の懇願を退けておられるのです。

 

それを受けて、百人隊長は、イエスさまを「主よ」と呼びつつも、自分がイエスさまを屋根の下にお迎えすることのできない異邦人であることを告白するのです。当時、ユダヤ人は異邦人の家を訪問することはありませんでした(使徒10:28参照)。そのようなことをすれば、宗教的な汚れを受けると考えられていたのです。この百人隊長は、ユダヤ人であるイエスさまを自分の屋根の下にお迎えすることができない異邦人であったのです。

 

百人隊長は、自分がそのような立場にあるものであることを知りながら、そのような者を憐み、救って下さる権威を持つお方として主イエスに願い求めているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、罪を犯し、神に背き続けてきたものをなおも愛し、あなたのもとに導いてくださる恵みを感謝いたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。