ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」ローマ4:4~8
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(新改訳)
「働いてその報酬を得る」というのがこの世の世界の常識でありなりわいであるといえます。ギブアンドテイクという関係です。
神は私たちにどれほどのものを無償で与えてくださっているかを考えると、私たちは神との関係においては、多くのものをいただいておりながら、それに値するものを到底お返し出来ない私たちであることを思います。
そればかりか、ここには「不敬虔」という言葉で表現されていますが、多くのものを神によって与えられており、養われておりながら神を認めようともせず、感謝もせず、自分が神のように振舞っていることが「不敬虔な者」と言われています。これが「的外れ」の状態であり、「原罪」を持った人間の姿なのです。
しかし、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」と言われています。この背景となっている詩編32編、詩編51編は、ダビデがバテ・シェバの罪を悔い改めたときに書いた詩篇です。
アブラハムもダビデも、神の前に自分を誇るところは一つもなく、行ないを誇ることはできません。よいことをして天国に行くことができるというような行いによって義とされることは不可能です。神の御前では、自分たちは不敬虔で罪深い人間に過ぎないのであり、私たちの救いの道は、神が私たちのためにお遣わしになった神の御子の贖いによって、この方を私の救い主と信じる信仰のみによって与えられるのです。これ以外に私たちが罪と死の支配から解放される道はありません。
人は何の根拠もなく義と認められるということはありません。アブラハムもダビデも、イエス・キリストに出会っていませんでしたが、彼らも、イエス・キリストの贖いを根拠として、その信仰によって救われたのです。彼らは、神の救いの約束を信じて、その信仰によって義と認められたのです。
祈り
天の父なる神様、この世界も、私のいのちも、仕事も、家族も、私たちが生きていくために必要なあらゆるものを与えてくださる恵みを感謝いたします。
体のいのちを与え養ってくださるばかりでなく、不敬虔な者となっていた私たちのために、その死んでいた魂を命へと生かして下さるために御子キリストをも与えてくださったことを感謝いたします。不敬虔な者を義と認めてくださるあなたの愛の深さを覚えることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。