わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。ローマ5:3~4
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(新改訳)
ここで言われる苦難とは、神による試練と考えることができます。子の場合の苦難は訓練のための試練です。罪を持った私たちは苦難(試練)なしには、神を求めることもありませんし、罪ある自分自身ときちんと向き合うことも出来ないといってよいでしょう。
すべてが自分の思い通りに進んでいくとすれば、傲慢になり、人々の痛みを分かることもなく、分かろうともせず、愛のない者になってしまうのではないかと思われます。罪の内にある心、石のような心は砕かれる必要があるのです。
そして、私たちが試練に会うのは、将来の働きのための訓練と考えることもできます。信仰を持って歩んだ人たちは、試練の中で訓練され、整えられていったことが分かります。
パウロは、「苦難は忍耐を」生み出すといいました。神に信頼し、主のみ言葉に従って歩むことそのものが忍耐であるといえます。そのように神とともに歩む時、「練達」(練られた品性)が生まれてくるのです。「練達」(練られた品性)とは、純粋で真心からの神への信仰が確かなものとされていく状態を表しています。不純物が除去されて、神との交わりがより親密なものとなっていくといってもよいでしょう。
このように神との交わりが確かなものとなっていくとき、私たちの心には確かな希望が生まれてくるのです。ペテロ1章6~7節には次のように記されています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」
こうして与えられる希望は、失望に終わることのない、神によって与えられる希望なのです。
祈り
天の父なる神様、あなたは罪の中にあり、的外れのような生活をしてさまよっていた私たちを省み、本来私たちが造られた神とともに生きる人生へと私たちを導いてくださることを感謝いたします。苦難にも意味があることを知り、忍耐を持って、信仰を持って、希望を持ってあなたとともに歩むことが出来ますように、お導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。