もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」ローマ11:6~10

もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」(新改訳)

 

私たちが救われたのは神の恵みによるということが述べられています。かってイスラエルの人たちがエジプトの奴隷であった時、神は彼らを奴隷の状態から解放することを告げられ、モーセをリーダーとしてエジプトの王パロと交渉するように遣わされました。モーセは、様々な奇跡を行なって、イスラエルの人々を解放することは神の御心であることを伝えますが、エジプトの王は神がかたくなにされたためなかなか彼らを解放しようとはしなかったことが記されています。

 

今日の聖書の箇所にも「かたくなにされた」という言葉が記されています。ここで「かたくなにされた」というのは、1章に書いてあるように、あくまでも神に逆らうので、神は彼らを自分の欲望のままに罪と汚れに引き渡してしまわれたということです。「自分の選んだ道を、どうぞ歩みなさい」と言ってその人が自分の欲する道を歩むに任せてしまう。それが「かたくなにする」ことなのです。

 

ローマ1章21節以下には次のように記されています。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(ローマ1:21~25)

 

 

そのように心のなすがままにほおっておかれた人たちは、神を信じることはおろか(真実の)神に関心を持つことも、神に聞き従うこともしないで、自分自身が神であるかのように考え、自分の欲望を満足させる偶像により頼んだり、自己中心という思いの中で自分をも他者をもまことのいのちからかけ離れたものとして歩むようになってしまっているのです。

 

申命記29章にはこのようにいわれています。「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。あなたたちは、主がエジプトの国で、ファラオおよびそのすべての家臣、またその全領土に対してなさったことを見た。あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」(申命記29:1~3)ここに言われていることも、神が彼らのなすがままに任せられた。すなわちかたくなにされたということを述べています。

 

逆に言えば、私たちは、それを悟る心、見る目、聞く耳を与えてくださらなければ(神の恵みによらなければ)決して神を知ることも、神を求めることもないということです。

パウロは1コリント人への手紙15章10節において「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。・・・働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と述べていますが、わたしもこれまでの歩みを振り返って同じことを実感しています。

 

祈り

 

天の父なる神様、パウロは、「神の恵みによって今の私がある」と告白していますが、私たちもあなたの恵みによって導かれたからこそ、あなたの恵みを知り、感謝の心や希望を心に抱いて生きることができます。あらゆることに喜びと感謝を持って生きることができますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。