今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。コロサイ1:24~25

ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、「苦難」とも訳されています(ローマ5:3,12:12、2コリント1:48など)。この言葉は、新約聖書の中で、イエス・キリストのこの地上の生活での苦しみを表すために使われたことはありません。

これは、主イエスの苦しみが不十分であったということではありません。パウロ自身が、キリストと一つに結ばれているために、自分自身に降りかかってくる苦しみであるということです。パウロ自身が受ける苦しみはまだ不十分であると自覚しているということです。

この時代にキリストの福音を伝えるということは、そのまま迫害を覚悟して伝えるということでした。今でもお隣の中国や北朝鮮でイエス・キリストの福音を伝えることは命がけの行為となりますが、命を懸けて今日も福音を伝えている教会の兄弟姉妹がおられます。

パウロは、クリスチャンの試練について次のように述べています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:23)

祈り

天の父なる神様、主イエスが苦しまれたように、キリストに従うものは、その程度の差はあるでしょうが、同じような苦しみを受けることも教えられています。しかし、あなたは耐えられないような試練に合わせることはないといわれました。試練の中にあるときにも、あなたの恵みのうちに歩むことが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。