1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

 

「十字架につけられたキリスト」こそパウロが語り、教会が宣べ伝えている宣教、説教の内容です。イエス・キリストは十字架によって死なれましたが、十字架によって私たち罪ある者の罪を贖い、罪と死の束縛から救い出してくださったのでした。

 

十字架は極悪人を死刑に処する道具です。しかも当時のローマ帝国においては、最も身分の低い、奴隷などを処刑する時にのみ用いられたものでした。その十字架につけられて殺されたイエスを、キリスト、つまり救い主と信じ、宣べ伝える、それが教会の宣教、説教の内容なのです。それは人間の常識から考えてみてもまことに愚かなことだと言わなければならないでしょう。

 

十字架につけられた者の話など、誰が喜んで聞くでしょうか。その人こそ神の子、救い主だなどということを誰が信じるでしょうか。十字架につけられて殺され、そして復活したキリストなど、愚かなもの、信じるに値しないものに思われるのです。

 

ところが神様が与えてくださる救いの御業は、私たちがより高い者、立派な、知恵ある、賢い者となるところにではなくて、神様が、独り子イエス・キリストにおいて、罪人である私たちのところに降りてきて下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったところにこそあるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、イエス・キリストの十字架の死の意味を理解し、この方こそが私の救い主である信仰に導かれた人は、ただ神の恵みによってそのように導かれた人であることを思います。主の恵みによって生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。