更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。ローマ13:11~14

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(新改訳)

 

ローマ人への手紙13章の終わりの部分に差し掛かりましたが、ここでパウロは、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」と述べています。

 

この手紙を読んだ初代教会の方たちは、キリストの再臨が近いというようにこのところを読んで考えていたようです。「マラナタ」という言葉 (第1コリント16:22、黙示録22:20) は、主が来られることについての信仰と祈りの叫びで、通常「主よ、来てください」と訳されますが、これは「御国が来ますように」 (マタイ6:10) や「祝福あれ…来られる方に」(マタイ23:39)といういみのことばであり、当時のクリスチャンの間ではよく用いられていた言葉のようです。

 

マルティン・ルターは、「自分が生きているこの教会改革の時代に主イエス・キリストの再臨は近い」と考えていたようですし、十九世紀にも、「キリストの再臨は近い」と教える人たちが多く教会に現われました。実際のところ、いつ再臨のイエス・キリストが来られるのか、主はその日を私たちに示してくださいませんでしたが、再び必ず来ることを約束してくださり、マタイ24章などにもあるように、世の終わりの前兆がどのようなものであるのかを教えてくださいました。

 

そこに示されているように、反キリスト、地震、迫害、世界中に福音が伝えられるなどの事を見るとき、今の時代のまさにいつ再臨が来てもおかしくない終わりの時代を迎えているといえます。初代教会のクリスチャンたちは、多くの迫害を経験しつつ、この言葉を聞きました、「主は近い」というこのメッセージに慰められ、励まされて困難の時代を乗り越える力を与えられていったと思われます。

 

今の時代の私たちは、再臨を待ち望むという信仰が薄らいでいるのではないかという思いがあります。「主は近い」というみことばを改めて新鮮に覚えつつ、主を待ち望むものでありたいと思います。

 

祈り

 

天の父なる神様、主イエスは、私は再び来るといわれ、その日を待ち望み、その日に備える信仰をもって生きることを教えてくださいました。今の時代を見るとき、あなたが教えてくださった終わりの時代にあることを覚えさせられます。終末の時代であることを覚えて、再臨の主を節に待ち望むものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。