互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。ローマ13:8~10
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(新改訳)
パウロが「だれに対しても借りがあってはなりません。」と言うとき、「どんな状況にあっても金銭を借りてはならない」という意味でないでしょう。モーセの律法には、貧しくなって暮らしが成り立たなくなったときには、お金を借りてもよいと書かれています。例えば、自分の家が火事にあってすべての財産を失って大変な状況に陥ったなら、男性は自分の身を売って、六年間、誰かの下で働いて自分の問題の解決を求めなければなりません。また、貧しくなって困っている兄弟がお金を借りに来たら、断ってはならないということも、律法に書かれています。兄弟が返済できないとしても助けなさい、と律法は命じています。
何の借りもあってはならない、ということをそのまま守ろうとするなら家のローンを組んで家を購入することは出来ませんし、学資資金を得るために奨学金をいただくことも出来なくなります。むしろ、困難の中にある人を救済し、支援し、助け合うためにこうした制度も必要なものであると思います。ここで教えられているのは、お金を借りても返さないこと、必要以上に借り過ぎること、そして借りる行為を軽く考えることを、パウロは禁じていると思われます。
パウロが強調したいことは、消極的・否定的なことよりも積極的・自発的に愛することです。キリストが私たちを愛してくださったように、真実の愛をもって(それは私たちの内に働く聖霊の働きによるものですが)神の恵みによって私たちの心が神と人とを愛する者に変えられていくことを願っているのです。
当時のファリサイ人たちは、「ユダヤ人はユダヤ人の隣人を愛さなければならない」と教えていましたが、「異邦人や罪人は憎んでもよい」とも教えていたようです。主イエスは、マタイ5章において「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:46~48)と言われました。
主イエスの教えが他の人々や思想と違うのは、主イエスが、「罪人を招くために」きてくださり、実際に罪びとである私たちのために十字架にかかるほどに私たちを愛してくださったことにあります。レビ記19:18にも「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」といわれ、同じく11:44にも「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」と言われています。
祈り
天の父なる神様、あなたは私たちに「聖なる者」であるように、「完全な者」であるようにと求めておられます。しかし、私たちはあなたの求めておられる姿から、どれほど隔たっていることでしょうか。しかし、私たちはあなたのような「聖」を基準として自分を見つめることはあまりないのではないかと思います。人と人とを見比べてそうした基準を考えることが多いように思います。神の聖を基準にする時、私たちは自分自身が罪のうちにあることを覚えずにはいられません。しかし、あなたはそのような罪の中にある私たちを招いてくださるお方です。この世の考え、この世の人々は自分に危害を及ぼしたり悪口を言うような人を排除しようとしますが、あなたは、罪ある者を招き愛してくださる方であることを深く知ることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。