信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。ヘブライ11章8節
あなたは、アブラハムのように「どこに行くのかを知らないで」出かけたことがあるでしょうか。私は、昔ある夏休みの日にあえて行く先を決めないで出かけたことがありますが、それはいずれ家に帰ることを見越して、家族にも伝えたうえで出かけたのですが、アブラハムの場合は、これとはまるで違います。神が行けと命じられたから、それに応えて行き先を知らないままに出かけていったのです。帰る家を捨てて、知らない土地に出かけていったのです。
神を信頼し、神にゆだねる信仰がなければできない事です。このアブラハムの信仰による応答の生き方は、私たちクリスチャンに神が求めておられる信仰を表しているということもできます。私たちは、過去に何が起こったのかは分かっても、これから何が起こるかということは分かりません。
同じへブライ11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。信仰とは、「見えない事実を確認」することだと言われています。今はまだ実現していない、まだ見えていない神の約束を信頼して、自分自身も自分の将来も神に委ねて従っていくことが信仰なのだというのです。
自分自身は、神に信頼しつつ、神の愛に応答しているだろうか。神の御心を求めて神に従っているだろうか、と考えてみましょう。もしそうしていないなら、来る朝ごとに、神に信頼して「出て行く」という思いをもって、自分の思いや自分の願いよりも、神の願いに応えることができるように、自分自身の考え方やいき方を問い直すことも大切なことです。
神に信頼しつつ「出て行く」姿勢を持ち続けるならば、あなたの人生は驚くほど喜びに満ちたものになります。次のダビデの言葉は、このような信仰に生きた人の言葉といえます。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」詩編23編6節
祈り
天の父なる神様、アブラハムがあなたの御声を聞いて、それに応えて出かけて行ったように、私たちにもあなたの御心に聞き従う信仰を与えてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。