あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。(マタイ20:26~28)
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(新改訳)
記した聖句の一つ前からは、異邦人の支配者たちは権力を振るって人々を支配しようとするが、あなたがたはそうであってはならない。あなたがたは、人々に仕えるものとなりなさい、と教えられています。
「人に仕える」ということはその後で、人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり……。と言われているように、主イエスご自身が人々に仕える者として歩まれたことも併せて語られています。しかし、主イエスは、人に仕えるという以上に、主なる神に仕え、神に従うという意識をもって生涯を歩まれたのです。
パウロの奉仕の原動力も、人々への愛というより以上に、イエス・キリストヘの愛でした。もし私たちが、単に人のために尽すという考えで奉仕するとしたら、容易に押しつぶされ、悲嘆に暮れてしまうのではないでしょうか。多くの場合、人々の反応が冷たいからです。しかし、もし私たちの奉仕の動機が、神への純粋な愛から出ているなら、相手にどんな態度をとられようと、奉仕の妨げとなることはありません。
生まれながらの人は、他の人の上に立ちたい、支配し、その人の主人のようになりたいという思いをもっています。こうした心が変えられていくためには、自分自身が神の僕になることです。聖霊がわがうちに働いて、キリストのように仕える者としてくださるのです。
祈り
天の父なる神様、人の上に立ちたい、そればかりでなく、神のようになりたいとさえ思ってしまう私たちに、あなたは主イエスによって、私たちを愛し、私たちに仕えて下さいますことを心より感謝いたします。
あなたが教えてくださるように、神と人とに仕える者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。